通学路で見た蜂達

私は小学校と中学校は、町内にある学校に徒歩で通った。
実家から小学校までは約2.5Km、中学校までは2Km弱で、子供の足では30近くかかっていたと思う。
道は今の様にきれいに舗装されておらず、タールを撒いて砂をかけたデコボコ道だった。
轍の痕がすぐついて、道端にはすぐ水たまりが出来た。
雨上がりなどには、今では見ることが出来なくなったトビムシが群れて水面に浮かび、青みがかった灰白色の埃が浮いているように見えた。
まだ稲田が数多く残っていたので、道に沿って小川が流れ、農業用水に使われていた。
小川にはまだメダカやドジョウが当たり前のように泳ぎ、川底にはアメリカザリガニや、タニシなどが生活していた。
用水路の側壁には、タイコウチがへばりついており、石垣の隙間からはアカテガニがのぞいていた。
アカテガ二は海で産卵するそうだが、海岸からは3Km以上離れていたので、産卵期には遠路歩いて下って行ったのだろう。
道に沿って並ぶ民家は古い家も多く、外壁は黒い木の板で瓦屋根の軒下には白い漆喰が塗られていた。


幼い頃から昆虫や小動物が好きだった私は、通園通学の時も道端や軒下の生き物に注意を奪われていた。
明らかに変わり者の私だったが、友人には恵まれ仲のいい友達との楽しい道行だった。
最も印象に残っていのは、コクロアナバチと共に私の蜂の原体験となった蜂で、民家や蔵などの高い屋根の軒下に営巣した。
アメリカジガバチという名のその蜂は、黒を基調にした3センチ前後の蜂で胸部に黄色い斑紋が有り、腹部の根元は針金のように細長い柄になっていて、その先に短い腹部がついているが、その基部にも黄色い斑紋がある。
アナバチ科ドロジガバチ亜科に属する蜂で、日本の在来種には近縁のキゴシジガバチやニッポンモンキジガバチなどがいる。
出会った最初から名を知っていた訳ではないが、自分で最初に買った簡単な図鑑で、その名前と戦後アメリカから帰化した移入種であることを知った。
通学の途中にある家の軒下に、丁度この蜂が営巣しているのを見つけた。
小学校の高学年だったろうか、演歌歌手の森進一の「おふくろさん」がヒットしていたのを、なぜかはっきり覚えている。
土でできた長いタコ壺のような形で、長さ3センチ余りの育房が並列に並べられ、さらに2−3階層に重ねて作られていた。
泥の玉を運んできて壺を形どっていく姿を、下から目を輝かせて見上げていた。
腹部をリズミカルに上下に動かしながら、せっせと仕事をするが、この動きはドロジガバチ属独特のもので、泥を採取する時も同じ動きをしていた。
巣材の泥は巣の近くの道にできた轍の跡の、水たまりなどから取ってくる。
多い時には一ヶ所に2−3頭が巣材を採りに来ていた。
ドロバチは乾いた土でも、自分で吸い込んできた水を吐き出し、湿らせてからこねて団子にするが、アメリカジガバチは元々水分を含んだ土しか取ることが出来ない。
獲物の搬入は観察出来なかったが、この蜂は蜘蛛をくわえてまず育房に後ずさりに体から入り、蜘蛛を引きこんでいく様だ。
出来上がった巣を棒で突いて落として、中を観察した。
種類は忘れたが、10匹を超す数の蜘蛛が入っており、そのうちの1匹に卵が産みつけられていた。
当時は細かい事は考えずに見ていたが、卵は一番最初に搬入された獲物に産み付ける。
蜘蛛は体長数ミリのもので、同じ種類のものが多かったように記憶している。
蜘蛛を食べつくした幼虫は濃い褐色の繭を作る。
この蜂が年何化するか確認したことはないが、冬は繭の中で幼虫の姿で過ごす。
この蜂はその後十数年の間に急速に姿を消し、住宅地では見られなくなった。
しばらく海浜部などで細々と蜘蛛を探す姿を時々見かけたが、その姿さえいつのまにか見られなくなった。
同様に他のドロジガバチも数を減らしているが、餌の蜘蛛の減少が大きな要因だろうと考える。
蜘蛛は他の昆虫などを捕食するため、少なくとも生態系のピラミッドの底辺ではない。
比較的多産であることを考慮しても、狩り蜂などに多数捕食されるので、蜘蛛自身がかなり良好な環境で、子孫を増やす必要がある。
アメリカジガバチが蜘蛛を狩る姿は、近所の生け垣やちょっとした空き地の花の上などで見ることは出来たが、とりわけ絶好の環境が当時多く有った稲田であると考えられた。
しかしその後の急速に進められた開発や減反政策によりまたたく間に激減した。
蜘蛛を狩る狩り蜂は、一頭の獲物に1つの卵を産下するクモバチを除いて、かなり山深く入らないと見ることが出来なくなった。


通学路の道路脇には、各家庭で様々な生垣が植えられていた。
マサキやカイヅカイブキなどが比較的ポピュラーなものであったが、きれいな花を咲かせる木を贅沢に植えている家もあった。
ムクゲの木を何本も植えて生垣にしてある家があり、季節が来ると多くの花が咲いてきれいだった。
その葉に付く虫を狙って訪れる蜂がいた。
トラップネストの話の中で紹介したオオフタオビドロバチだ。
この蜂はすでに話した様に蛾の幼虫を狩り子供の餌にするが、狙うのは植物の葉を巻いて糸で綴って住まう蛾の幼虫だ。
生垣のムクゲの葉は蛾の幼虫が多く付いていた。
中学生の頃だったと思うが、オオフタオビドロバチがこの木を訪れているのを見つけ、何をしに来たのかすぐに分かった。
通学途中なのでじっくり腰を据えて観察する訳にはいかなかったが、その様子の一部を覚えている。
蛾の幼虫はムクゲの葉を葉巻の様に丸く筒状にして糸で紡ぎ、中に潜んでいた。
蜂は蛾の幼虫が潜んでいる葉を見つけると、根元の方と先の方を交互に覗き込んで中の様子を探り、外に追いやる様に頭を突っ込む。


















筒になった葉の根元と先を行ったり来たりするのが段々と早くなり、せわしない動きになってくる。
反対側から逃げ出さない様に急いで先回りしているのだろう。
ここでは狩りの瞬間は観察出来なかったが、後年巻いた葉の中から獲物を引き出し、毒針で麻酔する瞬間を何度が見る機会を得た。
故郷ではお盆の帰省時に、海浜部の民家で栽培されているモロヘイヤの葉から、獲物を追いたててしとめるところを一度だけ見たが、佐賀ではノブドウやイラクサの仲間にかなり頻繁に狩りに訪れる姿が見られる。
前にも述べたが、この蜂はドロバチ科の中で最も普通種といってもよく、いたるところに営巣する。
農作物を固定する竿に使われている竹や、電柱の足場を取り付けるための穴など既存坑という既存坑を利用し、民家の周辺だけでなく山林でも普通に見られる。


故郷の兵庫県加古郡播磨町には、先にも述べた様に南北に喜瀬川という2級河川が流れている。
私が通っていた播磨小学校にほど近く、山陽電気鉄道の本荘駅(後の播磨町駅)があった。
喜瀬川は下流でこの山陽電鉄を横切って流れており、この川沿いの道が通学路になっていた。
当時ウナギが遡上する姿も見られたし、モクズガニなど大型のカニが川沿いの道からでもはっきり見られた。
上流では川エビやウナギの稚魚も普通に見ることが出来た。
小学生の私は登下校の時、川に何か生き物が見える時はあきもせず覗き込んでいた。
後年護岸整備されてきれいになったが、私が小中学生の当時はところどころ石垣などで護岸がなされているだけだった。

川の向かい側にも細い道があり、そこを通ることも出来たが、初秋には野菊がまばらに咲き、赤トンボが花と戯れる様に飛んでいた。
その道を通る時に見つけた蜂がいた。
山陽電鉄本荘駅の近くも石垣で護岸されていた。
川と石垣の間に岸はほどんど無く、わずかに泥などの堆積物が露出していたが、そこまで降りていっては堆積物を口にくわえ石垣を登っていたのは、黒いクモバチだった。
当時名前が分からなかったのだが、中学生になってから買った北隆館の原色昆虫大図鑑に、アケボノベッコウとして紹介されていた。
後年出版された改定版ではアケボノクモバチと記述されている。
クロクモバチ属に属するこの蜂は体長10ミリから20ミリほどと個体差が大きい。
私は最初この蜂の動きに違和感をおぼえた。
他のクモバチに比べて歩く姿か軽やかさに欠けるのである。
ほぼ垂直の石垣を登り降りしているから、というだけではなさそうだ。
よく見てみると6本の肢の付け根の位置が、歩く時に地面すれすれに見えた。
つまり体を引きずる様に見えるのである。
なぜそういう姿勢になるのかわからないが、とにかく結構多くの個体が体を引きずる様に川の方に降りて行っては、泥をくわえて上って来て途中の石垣の隙間に消えた。
小学生の私には営巣していることは想像出来たが、蜘蛛を運ぶ姿は見ることが出来なかった。
2−3年後寺の脇を流れる喜瀬川の上流で、護岸されたブロックに開いた排水口の近くで活動するこの蜂を見つけた。
排水口に棒をつっこんで中の物をかき出すと、泥や水草などと一緒にこの蜂のものと思しき繭が出てきた。
繭は空で、羽化した後だった。
石垣のすき間や、この様な閉鎖空間を利用して巣を作るものと思われた。
この蜂は特異な習性を持つことが、多くの文献で紹介されている。
池のほとりの蜂の話の時、私は水と蜂とはあまり繋がりが無いと言ったが、この蜂は水辺と密接な繋がりがある。
クモバチの一種であるこの蜂はもちろん蜘蛛を狩るのだが、水辺に生息する蜘蛛を狩る様だ。
何人かの観察記録によると、この蜂は狩った蜘蛛を水に浮かべてその上に乗り、まるで水上飛行艇の様に翅をはばたかせて水上を進むそうだ。
常にこういった運搬方法と採るのか定かではないが、水面を運搬経路として利用することがあるのは間違いのない事実の様である。
ゲンゴロウやタガメなどかつては平野部の水辺の普通種だった昆虫が、今や絶滅を危惧される生物として種の存続が危ぶまれている。
山林の開発などは大規模に行われる機会が比較的少ないため、山地性の生物より平野部の人里で普通種として知られていたものの方が人の生活の影響を受け易いのかも知れない。
この蜂が山間部の水辺に生息しているかどうかはわからないが、平野部の河川や水路を中心に活動していたことは間違いない。
故郷の喜瀬川のアケボノクモバチがいた場所は、完全にブロックで護岸し直されており、蜂の姿はもう見られない。
地域の他の場所に生息しているかどうか分からないが、今どこかの水辺で活動しているかも知れないこの蜂と、何時か再会したいたものだ。


中学になって学校が近くなったが、基本的には小学校に行く途中にあるので、同じルートで通学出来た。
しかし中学になって普段どのルートで通学していたか覚えていない。
中学校は先述の喜瀬川のすぐ脇に建っており、陸上部の練習の外周コースは一部川の土手を走っていた。
土手の道をずっと北上して行くと家に帰ることが出来、時々はそのルートで登下校したのは間違いない。
陸上部の練習の周回コースとは別に往復コースがあり、同じ土手の道を北に向かって1キロメートルほど走ると住吉橋という橋がかかっていた。
途中には大中橋があり、長短2つのコースを走り分けた。
中学から北(上流)はほとんど護岸工事されておらず、川岸に近づくほどにアシなどの植物が深く生い茂っていた。
土手の高い所の道に近いところは背の低い植物が自生していて、カラスノエンドウなどの花が蜂の蜜源になっていた。


前述の大中橋の近くに墓地があり、道をはんさんで川が流れていたが、道端の地面や雑草の葉の上でマイマイツツハナバチが体を休める姿が見られた。
確かな記憶ではないが、土手に咲くカラスノエンドウに訪花していたのを見た気がするが、その場所で採集した蜂の標本は残っている。
青みがかった体色で金属光沢を持ち、体長1センチ余りのハキリバチ科の花蜂でターコイズ色の透明感のある複眼を持っている。
おぼろげな記憶の中では、蜂は道を挟んで喜瀬川の土手と墓地の周りの茂みを行き来していた。
カラスノエンドウなどの蜜や花粉を集め、営巣活動をしていたのだろう。
当時既に北隆館の原色昆虫大図鑑を購入していた私は、この蜂の生態の概要を図鑑の記述により知っていた。
マイマイの名の通りカタツムリに所縁を持つこの蜂は、営巣基にカタツムリの殻を選ぶ。
茂みの中へ飛び去るこの蜂が、この地でカタツムリに営巣しているであろうことは、漠然とだが想像していた。
しかし深い茂みの中から、どこにあるかも分からない、営巣しているカタツムリの殻を探し出そうという発想が起こらなかったし、不可能だったと今でも思う。
いつの日かこの蜂の営巣したカタツムリの殻をこの目で見てみたいと、中学生の私は夢見ていた。
後年40歳代半ばになった私は、生活拠点を移していた佐賀県佐賀市で、とうとうその夢を現実のものにした。


2006年4月初め、佐賀市南部のみかん栽培が盛んな丘陵地で、林縁に落ちたカタツムリの殻にこの蜂の雄がまとわり付いているの見つけた。
近辺の林には豊富な量の落ち葉と下草があり、カタツムリが多く生息していたのだろう。
死んだり、マイマイカブリに食害されたりしたものが、雨水に流され林縁の斜面まで出てきているのをしばしば見ることが出来る。
このあたりにいつも営巣しているのかも知れないと思い、他所からも拾って来たカタツムリの殻を3つほど近辺に置いた。
果たして数日後殻に営巣を始めたことを確認し、写真にも収めることが出来た。
林縁の斜面になったところにカタツムリの殻を3つほど置いた。
落ち葉の中に下草がまばらに生えており、斜面であっても殻は転がり落ちなかったが、数日後確認に来ると殻の位置が微妙に変わっている。
しばらく見ていると、少し下の転がり落ちていたその殻にマイマイツツハナバチが帰巣した。
腹部のスコパに花粉を付けているので、雌で明らかに営巣していることが分かった。
次の週の日曜日にも朝から観察に出かけて見守っていたが、あまり早い時間には気温が低いためかまだ活動していなかった。
4月上旬の気候は日中こそ暖かかったが、少し陽が陰ると肌寒くなった。
蜂は夜の間は巣の中にいる様で、殻を陽にかざして見ると完成した育房と、蜂の影と思しき黒い塊が透けて見えた
蜂は正午を過ぎても巣の中で待機を続け、午後にようやく外役にでることもあった。
蜂は花粉と蜜を採取に出かけると、約15分で帰巣した。
岩田久二雄氏の著書の中で、レンゲソウを嗜好することが書かれていたが、近くにレンゲソウが咲いた稲田があり、餌場には事欠かなかった様だ。
後年この蜂が広食性であり、クサイチゴや、カタバミ、フジ、ヒメオドリコソウからジシバリなど、ありとあらゆる花を訪れることを知ったが、基本他のハキリバチ科の蜂と同じくマメ科の植物を好んでいる様だ。
蜂は続けて何度か花粉をおなかに付けて帰巣すると、今度は口元に緑色の玉をくわえて戻ってきた。
既に文献でこの蜂の習性の概要を知っていた私は、それが植物の葉を噛み砕いたものだと知っていた。
空き地の蜂達の話の時にイマイツツハナバチと一緒に紹介したが、この植物の葉の漆喰はあまり大きい玉にしない。
泥玉を作るツツハナバチと比較すると、見た目の印象では3分の2以下ほど、約2ミリほどを大きさだ。
巣材を持ち帰り始めたら、餌の貯蔵と産卵が終わった証拠だ。
カタツムリの殻の中に花粉と蜜を練った団子を作りその上に産卵すると、前述の巣材で隔壁を作り一つの育房を完成させる。
この蜂は変わった習性を持っている。
この蜂は営巣中のカタツムリの殻を必ず螺旋面を垂直に定位し、なんらかの理由でその状態がくずれると元に戻すというのだ。
その習性を故岩田久二雄氏の著書で知っていた私は、試さずにはいられなかった。
観察中の巣に蜂が戻ると、殻の中に蜂がいる間に殻を横に倒した。
蜂はカタツムリの殻か出てくるや異変に気づき、殻の上を歩き回ったり殻の下の潜り込んだりして、自らの体で押して角度を直したり、地面の堆積物を口でくわえて、6本の肢全てで殻を回したりして殻の口の位置を調整した。
思いのほか軽々と殻を扱い、果たして著書の記述にある様に自らの数倍の殻を見事に元に戻してのけた。
どんな理由で、この様な状態に定位させる必要があるのかは知らないが、殻の位置が狂うと必ず元に戻す。
私は見た例ではさらに殻の入り口は、蜂が外役から戻る方角の反対側を向いていたが、これが同じ様に必要条件なのか、少ない例では断言出来ない。
隔壁を完成させるとまた次の育房の餌を集めるという作業を繰り返して、一つの殻にいくつかの育房を作ると最終的に殻を塞ぎ、巣は完成する。
4月9日に営巣を確認した殻が最後の隔壁で塞がれたのは結局4月25日にもなってからだった。
荒天や低温などの要因で、一日の内の営巣活動に裂く時間が短いせいだろう
会社を昼休みに抜け出し、車で数分の営巣地で、気のせいか落ち葉に少し沈んだ殻を拾い上げた時には、入り口近を隔壁で塞がれた状態だった。
少し落ち葉に沈んでいたのは、巣の完成後にこの蜂が殻を目立たなくするためにしたのではないかと勘ぐったが、営巣完了後のこの蜂の行動は、残念ながらまだ観察した事がない。
一旦会社に持ち帰ったカタツムリの殻を、仕事を片付けてから夜遅く家に持ち帰り、慎重にカッターで解体した。
岩田久二雄氏の著書を参考にするならば、比較的多いと思われる7育房巣だった。
花粉団子はツツハナバチと比べると、少ししっとりして柔らかい感じ。
約2週間もかけて完成したのにもかかわらず、2育房目がようやく孵化した状態で、3つ目から後の育房ではまだ卵のままだった。
各育房間の隔壁は1ミリほどだったが、最後の入り口の隔壁だけは4ミリもあり、巣の完成を証明していた。
カタツムリの殻の内部を慎重に撮影した私は、やっと目にすることが出来たマイマイツツハナバチの巣を見ながら満足感に浸った。
しかし見られる時には見られるもので、次の機会はすぐに訪れた。
その年の5月の連休に帰郷した際、隣町の稲美町の雑木林に自転車で訪れた時、で多くのマイマイツツハナバチが訪花したり、営巣場所を探している姿を見つけた。
実際に営巣している殻を2つ確認出来た。
少年の頃友達と一緒にクワガタムシを見つけに行った雑木林だったが、少し様子は変わってしまっていた。
   
     

カタツムリの殻の中に作られたマイマイツツハナバチの巣。
一番外側に作られた隔壁は特別厚く、4ミリほどある。

落ち葉をしっかりくわえて6本の肢全てを使ってカタツムリの殻を動かすマイマイツツハナバチ。

巣を作るカタツムリの殻に花粉をおなかに付けて戻るマイマイツツハナバチ。
佐賀市大和町で。

春先に地面のカタツムリの殻のそばを飛ぶマイマイツツハナバチの雄。
佐賀市大和町。

古い標本。
兵庫県加古郡播磨町で採集したアケボノクモバチ。

左はイラクサの仲間の葉を探るオオフタオビドロバチ。(2013年9月佐賀市富士町)
右は菜園で栽培されるモロヘイヤの葉から蛾の幼虫を引き出す。(2010年8月兵庫県加古郡播磨町)

ヒメジョオンの花で獲物を待つハナグモを、餌食にする。

道端の水溜りで巣材の泥を採取するアメリカジガバチ。

育房の中に蓄えられた獲物。
全て同じ種の様で、ハナグモの一種の様だ。