蜂との出会い
子供は虫が好きだ。
今の子供には当てはまらないかも知れないが、どんな子供でも虫が好きだった。
カブトムシやクワガタムシ、バッタにセミ、トンボ、カマキリ、そのさまざまな形や飛んだり鳴いたりする姿が、子供の好奇心をとらえるのだろう。
友達と一緒に野原や雑木林で網をふるった経験は、ある程度の世代の人なら持っているはずだ。
平均的で健康な少年達は、たいてい他にも楽しいことを知っていた。
野球や大相撲などのスポーツを見たり、ビー玉遊び等をしてみんなで楽しんだ。
学校の休み時間や放課後に、楽しかったことや昨日見たテレビの内容をおしゃべりしながら、コミュニケーションの力を養い情報を身につけていった。
私は少なくとも平均的ではなかったようだ。
その事は蜂との出会いと大きく関係していた。
私は兵庫県加古郡播磨町という、瀬戸内海に面した小さな町で1961年に生を受けた。
4000グラムと大きく産んでもらったおかげで大きな病気もせず成長出来たのだが、1歳になる頃ちょっとした問題が見つかった。
そけいヘルニアだったのだ。
腹膜に少し薄いところがあった様で、男性が常に携帯を余儀なくされるあの袋に腸がはみ出てくるのだ。
幼い私は泣いたり力んだりする度に、親にそれを押し戻してもらっていた。
少し成長して歩けるようになると、親もずっと付いている訳にはいかないので、ヘルニア専用のバンドの様なものを買って来て、それを常に装着させていた。
父は船舶に特化した、薬品や医療器具などの卸の会社に勤めていて、このようなおよそどこにも売っていそうにないものを買って来てくれた様だ。
ゴム製のレンガ色をしたもので、結構強く圧迫するものだった。
色々な事情もあり、手術で完治したのは小学1年の夏休みだった。
それまで私は先述のバンドをし、○○○○3つなどと揶揄されることもあったが、幸運にも良い友達にも恵まれ、引きこもったりもせずに楽しく遊んで成長した。
だが丸6年間、若干のハンデを持って育ったためか、活発さにおいて他の友達よりも劣っていた。
スポーツや多くの運動量を必要とする遊びは、興味の対象にならなかったのである。
幼稚園のころから昆虫や小動物が好きで、近くの小川でどじょうやザリガニを捕って来たりしていた。
手術後不自由なく動けるようになっても、7歳までに培われた資質は固まりつつあった。
一部の男の子は、ある程度活発な者であってもクワガタやカブトムシなどレア感のあるものには興味を持ち続けていたが、やはりセミやバッタなどをいつまでも追い続けることは無く歳相応に卒業していく。
私は周りに影響されることも無く、他者との違いを自分に問う事も無く相変わらず自然愛好者ぶりを発揮していた。
もう一つの私の幸運は両親の理解だった。
カエルやザリガニなどの水棲動物や、バッタやコオロギなどの昆虫を捕えて持ち帰っても、母は嫌がることもなく飼育用にとポリバケツを買って来てくれた。
カエルやコオロギが家の中に逃げ出しても、ヒステリーを起こして怒ったりすることは無かった。
近所のママ友からは「気持ち悪い。平気なの?」などと驚かれた様だが意に介さなかったそうだ。
現在でもその傾向は強く残っているのだが、私は子供の頃から自分の好きなもの以外には興味を持てなかった。
授業にも集中せず、通信簿にも書かれたことがあるそうだが、勉強もせず虫にばかり夢中になっている私を、あまり叱ることも無かった。
授業参観の日でさえ私は授業に集中せず、母に恥ずかしい思いをさせた。
こんなことがあった。
ある授業参観の日、私は自分の人さし指と中指を人の足に見立て、机から上に向かって歩かせ始めたのだ。
おそらく手を挙げなさいと言われて手を歩かせたのだろう。
私は全然覚えていないのだが、母は「あの時は顔から火が出た」と言い、さすがに母にも先生にも叱られたようだ。
小学4年の時、蜂狂いのきっかけになることがあった。
当時学校では生徒に、学研の「科学」と「学習」という学習雑誌を購読させていた。
真面目に勉強する児童は「学習」派が多かったが、「科学」にはすこし授業の内容とは離れたところで面白い記事があったり、教材として模型などの付録が付いていたこともあり、私は後者を購読した。
4年生になった時、面白い記事が連載された。
「蜂の子こぞうの日記」(仮名は違うかもしれない)というもので、蜂好きの父と子が観察記録を載せていたのである。
私も昆虫好きなので、もちろん蜂の存在は知っていたが、少年の目につくのは民家の軒下などにある蓮の実を逆さにしたようなアシナガバチの巣くらいのものだった。
「蜂の子こぞうの日記」で紹介されていた蜂の生態は私のまだ見ぬ世界だった。
単独で巣作りをし、竹筒に子供の餌を運び込み、産卵する。
観察するための竹筒のトラップネストは、「蜂寄せ」と呼んで多くの蜂を呼び寄せる方法を紹介していた。
確かコクロアナバチやドロバチなどを紹介していたと思う。
小学4年の私は大きな衝撃を受けた。
登下校の道すがら目に付く竹筒は見て回ったし、早速竹筒トラップネスト「蜂寄せ」を作成した。
改築前の当時の実家には縁側に雨戸の戸袋があった。
その上に竹筒を一節ずつに切って束ねたトラップネストを置き、巣作り場所を探して飛んでくる蜂を待った。
住宅地にも一定の自然が残されていた当時、何種類かの蜂が飛来し営巣した。
しばらくの間はそこが私の一番の観察の場になった。
その後もどんどん蜂にのめり込み、観察体験を増やしていったのだが、記録に取ったりすることは無く、最初はポケットカメラで写真と撮ろうとしたがうまくいかず、知識も経済力も無い私は、とりあえずは多くの蜂との出会いに満足していた。
やがて中学校入学前の年、蜂の採集をしたくなり、父にせがんで志賀昆虫社の採集道具や標本箱を一式購入した。
小学佼高学年になってから仲の良い友達と朝ジョギングを始めていた私は、元々足は遅い方ではなかったので、中学に入り陸上競技を始めた。
スポーツと縁を持つことはなさそうだった私は陸上競技中長距離で頭角を現し、蜂と陸上競技の2つの楽しみを手に入れた。
1歳の頃三輪車に乗ってどや顔の私。
1962年自宅の前で。