別府鉄道と蜂達

私の故郷、兵庫県加古郡播磨町のJRの最寄の駅は土山駅だ。
母の実家が西に数キロ離れた加古川市別府町にあり、今なら車ですっと行けば良いのだが、父は運転免許を持っていなかったため、土山駅から出るローカル線「別府鉄道」を利用していた。
幼い私達兄弟(2級上の兄と1級下の妹、後年6歳下の弟が出来る)を連れて郷に帰る時、母は「レカ」に乗って行こうと言った。
レカとは列車の車両の型番で、別府鉄道の通称だったのだろう。
JR土山駅(当時国鉄土山駅)から加古川市別府町にある別府港4.1Kmをつなぐ鉄道があった。
私が物ごころ付いた頃はまだ蒸気機関車で貨物を引いており、最後尾に客車が繋がっていた。
当時財閥でもあった、加古川市別府にある通称多木肥料(多木製肥所・後の多木化学)の製品を積み出すために開業されたそうだ。
後年ディーゼル機関車がとって変わったが、スピードは変わらず遅かった。
いけないことだが、当時線路の上ににコインや釘を置いて、ペシャンコにしておもしろがる子供が少なくなかった。
1984年廃線となり、後に線路跡は遊歩道に変わった。
田舎の田畑を突っ切って敷かれた線路には、何もさえぎるものはなく、途中横切る道路にも踏切がなかった。
少年の私たちは、よく線路づたいに歩いた。
喜瀬川という天満大池を水源とする2級河川が故郷播磨町を縦断していた。
別府鉄道は、喜瀬川を大中という地区で通過したが、そこは鉄橋になっていた。
鉄橋の先に遊びに行くときは、おそるおそる枕木を歩いて渡って行くのが習慣になっていた。
はるか遠くに汽笛が聞こえると必死になって渡り切った。


線路にはかわいい野花が咲き多くの昆虫も生息した。
近くを流れる、農業用水を兼ねた小川では、6月になるとヘイケボタルが光り、稲田のカエルの声と共に今では帰らぬ思い出だ。
人が気兼ねなく入ってこれた線路だったが、人の手が入りにくい環境には違いなく、枕木の下に敷かれた砂利は、線路脇にいくにつれ砂地となって、穴掘り蜂の格好の営巣場所になっていた。
ハナバチの仲間は春から巣穴を掘った。
一番数が多かったのがアカガネコハナバチだった。
1センチに満たない小さな蜂で体は美しい金属色をしている。
春に雌が一匹で巣を作り始め、初夏には2世代目の雌が、生まれた巣で餌集めに加担する。
同じ巣穴に複数の個体がひっきりなしに出入りし、帰巣するものは後肢に花粉を付けていた。
それを花蜜と混合し団子を作るが、産卵は母蜂だけがするらしい。
真性の社会性蜂でいう女王蜂だ。
この様アカガネコハナバチにはカースト制と呼ばれる役割分担が現れ始めた、社会性の曙の様な生活史を持つ。
カースト制はスズメバチやアシナガバチ、ミツバチなどの真性社会性の蜂では確立されているが、コハナバチの中では未分化ながらよく見られるらしい。
他にもツヤハナバチの仲間でも実験環境では確認されているそうだ。
ツヤハナバチ同世代の創設雌が複数で営巣をする、多雌巣というパターンもあるらしい。
コハナバチの巣を観察したり、写真を撮ったりしたのは初夏の2代目が羽化してからだったので、多くの個体が巣穴から出入りしていた。
私はいくつか巣穴を掘って中を観察してみた。
スコップで巣の周りから注意深く掘り進んで、父にもらった歯科用の道具で坑道に沿って堀り崩していった。
(父は船舶専門の薬品や医療器具の卸の会社に勤めていたのだ)多くの育房が見つかり、中には花粉団子と
産みつけられた卵や、成長しつつある幼虫、あるいは蛹が次々と見つかった。
主坑からごく短い坑道が枝分かれし、その先に育房が作られていた。
育房はきれいな楕円で、坑道より少し太く、内壁は舐められたように平滑になっていた。
よく見かけたもう1種のコハナバチはハラナガコハナバチ(別名ホクダイコハナバチ)だった。
体長1センチほどの蜂で、やや細長い体つきをしている。
黒っぽい体に淡い色の微毛があり、腹部には白と褐色のグラデーションになった細い帯がある。
この蜂の巣穴は線路内だけではなく、近辺の田の畔道などにもみられた。
アカガネコハナバチもそうだが、コハナバチの巣穴の入り口は全般的に坑道よりも狭くなっている。
これは外敵の侵入を防ぐ効果があるようで、その狭い穴を塞ぐように顔をのぞかせる蜂の姿をよく見た。
この蜂も春に成虫で越冬した雌が一匹で巣を作り、2世代目の雌と同居し共同で巣を作るそうだ。
この蜂の巣穴も掘って観察したが、その形には感動した。


















湾曲して掘り進められた主抗の先には、広い空間が現れ、その中には整然と6角形に並んだ土の塊があった。
これは育房で、中にはまんまるい花粉団子が入っており、内壁やはりきれいに舐めたように、平滑になっていた。
育房と空洞は、よく見ると細い支柱でつながっていた。
出来上がった状態を見ただけでは、育房を掘ってから周りを削り取ったのか、空洞を掘ってあとから育房を築いたのか分からなかったが、この蜂は十分に研究されているようなので事実は既知の事であろう。


初夏のころ当時珍しい蜂を観察できた。
ヤマトヌカダカバチという黒い1センチ足らずの小さな蜂で、ギングチバチ科のケラカリバチ亜科に属する。
かつてはヌカダカバチと呼ばれていた。
気候がよくなってくると、線路脇にはニワゼキショウという小さなかわいい野花がたくさん咲いた。
背丈の低い花なので、地面は露出して見えたが、その合間を、生まれたばかりのショウリョウバッタの幼虫が弱々しく跳ねていた。
一見すると雑草の葉のくずが風でうごめくようにしか見えない。
これを狩るのがヤマトヌカダカバチだった。
姿は、すでによく見かけて知っていたコオロギバチに似ているが、コオロギバチが昆虫などの掘った
既存の穴を利用して巣を作るのに対し、この蜂は自ら巣穴を掘った。
長い線路脇のどこにでも営巣しているわけではなかったが、営巣を確認した場所ではまとまって数匹が巣を作り、活発に活動するのが観察できた。
ショウリョウバッタは孵化まもなく、小さいものばかりだが、ヌカダカバチにとっては自分より大きな獲物は運びでがあったようで、かなり重そうに運んできた。
しかしずっと地面を歩いてくるのではなく休み休みであっても飛んでくる。
獲物にはイボバッタの幼虫も含まれていたが、これはショウリョウバッタより少し小さい。
このような小さい獲物の時は、かなり早く飛んで運ぶ。
巣穴に入るのも素早く、カメラを構えてもなかなか撮影に成功しなかった。
巣坑は数センチ掘り下げられ、その先に径が広い空間があった。
これが育房で、その中に数匹の獲物が蓄えられその内の一匹に卵が産みつけられていた。
獲物はショウリョウバッタとイボバッタの2種類のバッタの幼虫で、卵は獲物の前肢の付け根に、横向きに産み付けられていた。
この写真は今も残っている。
この蜂を撮影したころ、私は大学生になっていたが、撮影時に少しテクニックを使うようになった。
たいしたことではないのだが、被写体を買ってきたガラス板の上に置き、ガラス板を空き箱などの上に置いて上げ底にし、下には色紙を敷いた。
マクロ撮影で浅くなった被写体深度によりバックは色だけになり、被写体だけが引き立った。
2005年以降撮影を再開してからは、そこまで手をかけることは無く、いずれの写真も床のカーペットか合成皮革の起毛材の上に直に置かれている。
この蜂は1つの巣あたりに5つの育房を設けると「西南諸島産有剣類ハチ・アリ類検索図説」に記されているが、私は営巣中の巣を掘ったため、1育房しか観察したことがない。
この蜂とは後年佐賀県でも出会って営巣の様子も見ることが出来た。
佐賀市富士町の山中の道端の地面に営巣し小さなバッタの幼虫を素早く運び込んだ。
トノサマバッタか何かだと思うが、緑色の数ミリのバッタの幼虫であった。
5月下旬のことだったが、同じ富士町のもっと山深い別の場所でも観察した。
その同じ場所で、8月にも営巣を観察したので、少なくとも年2化するものと思われた。


喜瀬川を渡って線路づたいに西に行くと大中遺跡という弥生時代中期から古墳時代中期にかけて営まれた集落の遺跡がある。
竪穴式住居を復元したものが一般に開放され、休日の憩いの場となっていた。
線路をはさんた向いには畑が広がり、そこにも両親が畑を借り、野菜を栽培していた。
そのあたりに行くとさらに色々な蜂が見られた。
先に紹介したイマイツツハナバチはこのあたりにも多く見られ、春になると線路脇に置いてある、余った枕木の上でよく見かけた。
その時代はまだ多くの稲田が町中にあり、多くの田では土を肥やすためにレンゲソウの種を蒔いていた。
この蜂は特にレンゲの花を嗜好するので、蜜源には事欠かず、生活にはもってこいの環境だったのだろう。
線路とその脇にある空き地や畑との境界線は非常にファジーで、雑草が空き地側から張り出していた。
セイタカアワダチソウやヒメジョオンなどの、枯れ茎が折れた切り口部分から巣穴を掘り進む蜂がいた。
これらの草の茎には髄質は白いスポンジ状になっていて柔らかい。
ここに巣を作るのが、イワタツヤハナバチという4−5ミリの小さな真っ黒の蜂だ。
名の通り体毛が少なく光沢がある。
当時はイワタツヤヒメハナバチと呼ばれていたが、当然ヒメハナバチ科には属さないので名前が変えられたのだろう。
コシブトハナバチ科に属し、クマバチに良く似た生活史を持つ。
同じ仲間には他にキオビツヤハナバチやヤマトツヤハナバチという蜂がおり、前者はオープングラウンドな環境に営巣し、後者は雑木林の林縁をこのんで営巣場所に選んで住み分けをしている。
どちらも同じ様に植物の髄に穴を掘り営巣する。
イワタツヤハナバチもオープングラウンド派で、この線路脇の住人だった。
枯草の茎の折れ口に露出した髄質に、2ミリ足らずのきれいな丸い穴があいているときはこの蜂が中に巣を作っていた。
髄の中を、多少湾曲しながら坑道を数センチ掘り進むと奥の方から餌を貯え始める。
花粉を蜜で練って、扁平なソラマメの様な形に整え、自分と同じくらいの大きさになると完成だ。
穴の中で扁平な面を上下に横たえられた花粉団子の上面に、縦向きに卵が産みつけられた。
卵は体の割にかなり大きく、2ミリ近くあったと思う。
産卵を終えると次の育房の準備に取り掛かるが、その際隔壁を作り最初の育房を塞ぐ。
材料は、巣を作っている茎の髄質を削ったものをそのまま使う。
このあたりもクマバチを同じである。
数個の育房を用意するが、餌の貯蔵を産卵のペースはゆっくりしているので、一番奥の育房に蛹がいるのに
入口側の育房には卵が産みつけられた花粉団子がある場合があった。
線路脇にはヒメジョオンの花が咲き、この蜂が多く訪れていた。


バラハキリバチは、実際に線路内に営巣しているのを観察したことはないのだが、営巣場所を探して飛んでいるのを何度か見たことがある。
この蜂は春から秋にかけて発生するハキリバチの仲間の代表種で、体長12−3ミリ、胸部には赤褐色の毛を有する。
近似種には先述のツルガハキリバチ(バラハキリバチモドキ)があり、胸部に暗色毛が多いことで区別できるそうだ。
この蜂も春から秋にかけて活動するが、当時私が見たのは、もっぱら秋になってからで、クコの花によく来ていて、地中の既存坑に営巣していた。
バラハキリバチは、竹筒トラップを利用することを話したと思うが、ツルガハキリバチ同様非常に営巣環境の融通が利く蜂なのだ。
既存坑であればいいのだが、地上であっても地中であってもかまわない。
しかしやはり竹筒の利用が目立ち、農家の納屋の脇にかけられた竹の切り口や畑の野菜用の棚に使われた竹竿などが、葉で塞がれているのはよく見かけた。
ブロック塀のブロックの隙間に営巣しているのを見たこともあるし、桜の朽木の穴に、ギングチバチに混ざって営巣しているのを見たこともある。
地面にも、昆虫か何かが掘った穴があると、ためらわずに営巣する。
別府鉄道の線路では、枕木の下を探って飛び回り、もぐりこんでは出てきて既存坑があるかどうかを探っていた。


珍しい蜂も見かけた。
先に紹介したアカアシハヤバチが、線路の脇に積んである枕木の下を探って飛んでいて、かなりの期待を持って見ていたのだが、そのうちに姿を消した。
営巣場所を見つけていたのか、獲物を探していたのか分からなかったが、後年この蜂の営巣を観察した経験からすると、営巣場所の吟味であったと思われる。
この蜂は前述の通りササキリなどの小型のキリギリスの仲間を狩る。
後年佐賀県富士町の市川で、この蜂をはじめヒロズハヤバチやオオハヤバチの営巣を観察し、ヒロズはバッタの仲間を狩り、オオハヤバチはクダマキモドキと思われる大型のツユムシ型の昆虫狩っていた。
前章で紹介したヒメコオロギバチという蜂は、ヌカダカバチに良く似ている。
体長は1センチほどで、よく地面を素早く歩いている。
成虫で越冬し、早春から秋遅くまで活動し、真冬でも小春日和には地面に出てきて日向ぼっこをする姿が見られる。
この蜂は線路内でもコオロギの仲間を狩り、巣を作っていた。
枕木の下は、砂利を敷いているので、河原などに住む小型のコオロギが石の下や隙間に生息していた。
そのコオロギを狩って足早に運んでいく姿が見られた。
触覚をくわえて、馬乗りになり時々滑空しながら歩いていき、物陰に消えた。
この蜂は畑などの地面に開いた穴や、石垣の隙間などに体積した土に開いた既存坑を利用してよく巣を作っていた。
   
     

バッタの幼虫を狩り運ぶヤマトヌカダカバチ。
佐賀市富士町。

ヒメジョオンを訪花するイワタツヤハナバチ。

巣穴に入るアカガネコハナバチ。
2009年佐賀市大和町で撮影したもの。

大中遺跡の中に展示されている別府鉄道を走っていたディーゼル機関車。

バラの葉を切り取るバラハキリバチ。

枯れ草の隋質に営巣するイワタツヤハナバチ。

育房内に運び込まれた餌と卵(右下のショウリョウバッタ)

左は育房内に作られた花粉団子と卵。
右は地中から取り出した育房。整然と六角形に並んでおり、塞がれている。

ジシバリの花を訪れる雌。
12月に観察した珍しい例。
佐賀市大和町で。

アカガネコハナバチの育房の中の花粉団子と卵や幼虫。
主坑の脇に短い枝坑が掘られる。
1981年頃と思われる。